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中台禅寺の開山祖師惟覚安公老和尚は四川省営山県生まれ、1963年基隆十方大覚禅寺において、虚雲老和尚の直系弟子である霊源長老のもとで出家し、字号知安、法名惟覚を授けられました。老和尚は、宜蘭の吉祥寺、新竹の圓明寺、香港の大嶼三寶蓮寺で修行を重ねた後、台北の萬里の地で茅葺きの庵にこもり十有余年修行に励みました。その後、仏法をもっと世に広めてほしいとの信徒たちの願いをかなえるべく霊泉寺の建立に着手し、弟子たちと共に草を刈り、土地をならし、煉瓦を積み上げ、1987年霊泉寺を完成させました。

完成後、小規模ながら初めての禅七(七日間の座禅会)を催し、禅宗の歴史の中で消えかかっていた禅七の法門を蘇らせました。1991年には四十九日間の禅七も行うようになり、禅宗の宗風が見事に復活しました。その後、四衆弟子が増えるに従い霊泉寺が手狭になったため、新たな布教の中心となる場所として2001年南投県埔里に中台禅寺を建設しました。完成まで十年という長い年月をかけての建立でした。

老和尚は、「十年樹木建叢林、百年樹人立法幢(十年の歳月をかけ寺院を建立し、百年の歳月をかけ仏法を盛んにする)」の信念のもと、福徳、教理、禅定の「三環一体」を修行の理念とし、僧侶教育、社会教育、学校教育を推し進めました。台北萬里の地で修行に励んでいた時から中台禅寺建立に至るまで、常に「動静一如」をもって弟子たちを導き、菩薩の行願(願を立てて修行すること)を実践し、「靜則一念不生、動則萬善圓彰(静なる時は一念も生ぜず、動なる時はすべて円満なり)」という修行の規範を作り上げました。

中台禅寺の建設と同時に中台仏教学院を創立、さらに、人々の心を浄化し済度するため、世界各国に108の精舎を設立しました。大規模な法会や100回に及ぶ仏法講座や年10回の禅七を開催し、布教に力を尽くしました。また、五戒、八齋戒、如来三壇大戒を定期的に伝授しました。

老和尚は仏法を実践し僧団を維持発展させていくため、「中台四箴行-対上以敬、対下以慈、対人以和、対事以真(目上の人には敬意を払う、目下の人には慈悲を持つ、人とは和やかに交わる、事には真をもって当たる)」を基本理念に掲げ、30年にわたり人々を教え導き、一歩ずつ着実に中台世界を築きあげました。

また、「仏法五化(仏法の学術化、教育化、芸術化、科学化、生活化)」を布教方針とし、一人ひとりの自性(じしょう)(衆生が本来持っている真実の性質)に光明の灯をともし続けました。さらに、普台小学校、中学校、高等学校を設立し、「覚」(仏の智慧)にもとづいた調和ある人格の形成を目指した全人教育を確立しました。そして、中台世界博物館を建設し、歴史の伝承と中華文化保存のため、芸術面から仏教を教化するという功績も残しました。また、中国と台湾の仏教と文化の交流を積極的に推し進め、双方の繁栄と世界平和の推進に努めました。

老和尚は生涯を通して修行に励み、行が円満となったのち、2016年4月8日多くの弟子たちに囲まれながら安らかに入寂しました。享年90歳。出家から53年、三壇戒を受戒して52年、この間に直系弟子2千人、在家信者は100万人を数えるまでになりました。老和尚が荼毘に付された日は3万人を超える四衆弟子が参列し、深い悲しみの中でのお別れとなりました。

「外現声聞身、内密無上印、身行菩薩道、広度諸有情(外見は声聞の姿をまとい、内面は無上の仏の教えを秘め、身は菩薩道の修行を行い、広く衆生を済度する)」―これは老和尚が誓願成就を目指して修行する弟子たちを教え導くにあたり常に説いていたことばであり、老和尚の生涯の軌跡そのものでもあります。

「中台広伝、落地生根(中台禅寺の教えを広く根づかせる)」―四衆弟子は老和尚のこのことばを胸に、そのご恩に感謝し、志を受け継ぎ、仏法五化の布教方針のもと、仏法を広め、人びとのこころを浄化することにより、社会を平安に導こうと堅く決心しています。